2008年02月20日
旭富士 正也
なんかカッコイイ四股名です。
旭富士 正也(あさひふじ せいや、本名:杉野森 正也〔すぎのもり せいや〕、1960年7月6日 - )は大相撲の力士で、第63代横綱。青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。近畿大学出身。現役時の体格は身長189cm、体重143kg。引退後は年寄・旭富士から安治川を経て、現在の年寄名は伊勢ヶ濱である。
五所川原商業高校在学中に長野県で行われた国民体育大会で、少年の部の団体優勝に貢献。その後近畿大学に入学したが、相撲部の合宿所での生活に馴染めず、退部(その後通信課程で卒業)。
青森に戻り漁業に従事していたが、スカウトを受けて大島部屋に入門。入門を応諾したのは歴史の浅い小部屋で関取も所属していなかったという理由もあるという。
昭和56年1月初土俵。前相撲から取ったが格の違いを見せた。旭富士の四股名は、師匠大島の現役時の四股名「旭國」と、入門当時に頭角を現した「千代の富士」に因んで名づけられた。
最もこれは若名乗りの名で、大島は幕内に昇進したら自らの現役時代の四股名を継がせ、二代目旭國を名乗らせる予定でいたが、本人が「自分の名前を大きくしたいから」と断り、大島は憤慨しつつも結局許され、最後まで旭富士で通したという逸話が伝わっている。
ちなみに旭國は昭和42年3月場所で幕下優勝を果たしているが、その場所に三段目で優勝したのが「旭冨士」という、静岡県出身で時津風部屋所属の力士だった。
旭富士は新十両まで7場所、昭和58年3月新入幕。懐の深さを生かした柔軟な体つきが持ち味で、新入幕当時から将来の大関候補と期待されていた。幕内時代には技を活かして勝つ相撲が多く、技能賞を5回も受賞している。
昭和62年9月場所後に待望の大関昇進。大関2場所目の昭和63年1月、千秋楽で苦手の千代の富士に勝ち、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。その後も次期横綱候補にふさわしい安定した成績を収めていたが、終盤まで優勝争いに加わるも、ここ一番で敗戦というパターンが続いて、あと一歩で優勝を逃すという場所が続いた。
平成元年には、大関の地位で1月場所から5月場所の連続3場所で40勝5敗、優勝同点2回の好成績を収めていた。一昔前なら既に横綱昇進となって当然の成績だったが、昭和62年11月場所後に優勝経験なしで横綱となった立浪一門の同門力士だった双羽黒(立浪部屋)が不祥事で廃業したことから、横綱昇進基準厳格化の声が高まっており、その煽りを受けて不運にも昇進が見送られた。その後、持病の膵臓炎が再発し、その病の影響により暫くは8勝・9勝止まりで勝ち越すのがやっとの状態が続いたが、平成2年5月に14勝1敗で、14場所ぶり2度目の優勝をして復活となる。
そして翌7月は千秋楽で千代の富士に勝って、14勝1敗で3度目の優勝を2連覇で果たし、場所後に苦労の末ようやく横綱昇進となった。この千代の富士との対戦、二人が土俵際投げの打ち合いとなり、旭富士が千代の富士の頭を押えつけて掬い投げで下した一戦は、旭富士の一番最高の大相撲と言われている。
旭富士は、横綱土俵入りを、後継者が少なく短命のジンクスが有る不知火型をあえて選んだが、これは彼の所属する立浪一門が代々不知火型を採用していたという事情もあった。その土俵入りの指導は、元横綱・琴櫻で当時の佐渡ヶ嶽親方が行った。
横綱昇進後は13勝・12勝・11勝・11勝と続き、横綱5場所目の平成3年5月には前日まで全勝だった大関小錦を本割と優勝決定戦で破り、逆転で4度目の優勝を果たした。横綱昇進後初めての優勝だったが、これが最後の優勝となった。翌場所は膵臓炎の再発の影響で崩れて8勝7敗。9月場所は若花田に右手一本の上手投げで吹っ飛ばされる等散々で途中休場。翌場所も全休した。そして復帰した平成4年1月、初日から曙、安芸ノ島、若花田と3連敗を喫して引退を表明。横綱在位はわずか9場所だった。
ちなみに、旭富士は千代の富士と全く相性が悪く、対戦成績は旭富士の6勝30敗、横綱同士とは思えない対戦成績である。
昭和63年11月場所14日目、千代の富士が53連勝を達成した時の相手が旭富士で、この相撲では千代の富士に豪快につり出された。
(以上、ウィキペディアより引用)
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